大学では芸術学を専攻しています。
まだまだ知識不足なので勉強中です。
近現代の芸術が好みで、宗教色の強いものは少し苦手です。
基本えり好みはしませんが、記事傾向の参考程度に。
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最近になるまでバルトが思想家と知りませんでした。
ボルタンスキー同様写真家なのだと勘違いをしていました。
ロラン・バルト(Roland Barthes,1915年11月12日 - 1980年3月25日)はフランスの記号学者、思想家。高等研究実習院(École pratique des hautes études)教授、コレージュ・ド・フランス教授。シェルブールに生まれ、バイヨンヌに育つ。ソシュール、サルトルの影響を受け、エクリチュールについて独自の思想的立場を築いた。
歴史家にとどまらないミシュレの活動に着目した『ミシュレ』、「作者の死」の一編を収めた『物語の構造分析』、フランスのさまざまな文化・慣習を分析した『神話作用』、衣服などの流行を論じた『モードの体系』、バルザックの中編を過剰に詳細に分析した『S/Z』、自伝の形をとりながら自伝ではない『彼自身によるロラン・バルト』、写真を「プンクトゥム」という概念などで論じた遺作『明るい部屋』など、その活動は幅広い。
幼くして父を亡くし、女手一つで育てられたバルトは非常に母親思いであったという。 パリ大学で古典ギリシア文学を学んだあと、結核のために長期間に渡り療養所で暮す。 療養期間を終えたあとは各地でフランス語講師として働きながら思索をめぐらす。 1953年に『零度のエクリチュール』を発表、文学と社会の関係を鋭く分析したこの作品で一躍時代の寵児になる。 1962年から高等研究実習院指導教授。1977年にコレージュ・ド・フランス教授に就任した。 1980年に事故死。
バルトは構造主義者だと見なされる向きを嫌い、常に変容していった思想家だった。 1970年には日本について独自の分析をした『表徴の帝国』(=『記号の国』)も発表している。
今やっている内容は、バルトの『明るい部屋』と一番関係していそうなので、
この著書は一度は目を通したいと思う。
ボルタンスキーもバルトも死を背景としているように思うが、
その中でも決定的な違いがある。とわかった。
バルトは、厳格なプロテスタントの家庭で、第一次世界大戦を体験しており、
ボルタンスキーはカトリック、第二次世界大戦を体験しており、しかも父はユダヤ人だった。
一見するとなんのことだかよくわからなかったが、
その後の詳しい説明を読むと、なるほどと思わずにはいられない。
ボルタンスキーは偽りの生活を続けたが為、
現実と虚構の区別が写真にみられないという点などは
着眼点に感心した。
芸術には時代背景がかかわっているということを改めて認識させられた。
さて、その文章の中で、崇高論に関する文章が出てきたので、
カントの『判断力批判』を
借りてきてみたのだがすでに挫折しそうだ。
とりあえず、軽く目を通すだけでも違う気がするので頑張ってみたいと思う。
この講義を聴くと、美術館の配置などもしっかりと
考えられているんだとあらためて感じさせられる。
宗教画などは基本の150センチよりも上に飾ったり、
展示物の長編の1.5~2倍の退きが必要だったりと、
ある程度の空間の重要さを感じさせられる。
ということは、大きな絵は小さな展示室には飾れないということか。
また、展示物の感覚は視野の面積の五分の一以下だとか。
私が美術館と言っていつも思い出すのは北九州市立美術館だが、
そんなものだったかな。と思いだそうとしてもよく思い出せない。
配列の部分でのハンズオン資料は最近は本当によく見かけるようになったと思う。
やはり触れたりするのは楽しいし、視覚だけよりも触覚でも楽しめる
この試みは成功だと言える。博物館などは聴覚で
楽しむところも増えてきているような気がする。
説明には、美術館で、壁の色などを大胆に変える場所も
増えてきていると聞いたが、いまだにそのような美術館を訪れたことがない。
どのような場所にあるのかが気になる。
新しいブログにしての初めての日記です。
西洋美術史講義
夏至観音について
小豆島にて約20年ほど前に発見されたとされる観音
観音と言ってもアケイロポイエトス(人の手によらないもの)で
夏至の期間中、3時ごろ岩肌に観音の姿が現れるというもの。
どうやら、月の光が強いときにも現れるとか。
しかも、その時は太陽はちょうどガンジス河の真上あたりにあるという。
その部分についてはどうかとも思いますが…
なにはともあれちょっと興味がそそられます。
文献資料
Sharf Living Images
ハギアソフィア大聖堂 について思い出せなかったので
以下ウィキから
アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブルにある博物館。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂として建設されたもので、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノポリス総主教座の所在地であった。東西教会の分裂以後は、正教会の総本山となる。
東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれる。
うーむ、困りました。ビザンティン建築についてもよくわからない
ビザンティン建築 (Byzantine Architecture) は、東ローマ帝国(ビザンティン帝国、ビザンツ帝国)の勢力下で興った建築。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。
ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。
東ローマ帝国の勢力圏のみならずキリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやユーゴスラヴィア、ロシアといった東欧諸国あるいはアルメニアやグルジアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。
とりあえず、東西ローマが関係しているようですね。
世界史を詳しく知らないのでもう少し詳しく勉強する必要がありそうです。