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プロフィール
HN:
みくと
性別:
女性
職業:
大学生
趣味:
旅行
自己紹介:
旅行をかねて全国のいろいろな美術館に行ってみたいです。
大学では芸術学を専攻しています。
まだまだ知識不足なので勉強中です。
近現代の芸術が好みで、宗教色の強いものは少し苦手です。
基本えり好みはしませんが、記事傾向の参考程度に。

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先日から授業が始まったのですが、
金曜日にロシア語の授業に行くと教授が
ロシアに行ってきたらしく、ポストカードとお菓子をくださりました。
ロシア語は読本、文法と授業が二回ありその日のうちに二回ともあったのですが
その両方で配っていたため、かなりお得な気分でした。
チョコレートは美味しかったですが、飴はひどい色とにおいで食べる気がしませんでした…


ロシアといえばエルミタージュ美術館に行きたいですね。
プーシキン美術館も気になるところです。
あのシュリーマンが発掘した「プリアモスの財宝」が
第二次世界大戦後にこのプーシキン美術館で見つかったということですが、
きっと、まだ返還されていないはずです。観てみたい。


しかし、ロシアはビザをとることを考えると少し行きづらいですね。
でも、一度は行ってみたいです。


休み期間中に呆け過ぎてロシア語の復習をしていなかったので
勉強しなおさねば…!
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学校の授業もはじまっていることですし
少しごたごたしそうですので更新は土日の時間が空いたときにしたいと思います。

あまりに書きたいことが多いため、日にちごとにわけて書いていきたいと思います。
ハンガリーとか、もう既に忘れそうなんですけれど;

とりあえず、スライドショーなどを作ってDVD‐Rか何かに写真を保存したいと考えています。
そのような知識に乏しいのでうまくできるかどうかわからないのですが…

murillo_immaculate00b.jpg










このブログのファイルのリサイズ機能はどうにかならないのでしょうか…
いつも画像が小さく表示されてしまうのです。
サーバーの負担を抑えるためなのだと思うのですが、ただ単に私の知識不足なだけでしょうか?
ファイル形式を変えるなど、暇があればいろいろ挑戦してみます。


探査機と宇宙ステーション
 
 アメリカではアポロ11号が月面着陸してソ連に勝利した後、有人宇宙飛行の意義は失われようとしていた。こうして、現実的な研究や実験などのために、探査機や宇宙ステーションの打ち上げが積極的に行われるようになった。1972年のパイオニア10号、1973年のパイオニア11号はともに惑星探査を目的としており、木星や土星を撮影した後太陽系の外へと飛び続けている。1979年に打ち上げられたボイジャー1・2号は現在も稼働し続けており、現在も重要な情報を送り続けている。また、ソ連のミールやスカイラブなど、実験のための宇宙ステーションが打ち上げられ、無重力の特性を生かした宇宙空間でしかできないような実験を行っている。
 
事故と教訓
 
 宇宙開発には様々な困難と危険が付きまとう。人類が宇宙空間に行ったことのない時代には、犬などの哺乳類が犠牲になった。また、アポロ計画では、アポロ1号の訓練中の火災事故で3人が脱出できずに死亡する痛ましい事故、また十分に安全が確かめられず打ち上げられたソ連のソユーズ1号や、ソユーズ11号での死亡事故など、数多くの犠牲が払われてきた。現在においても宇宙旅行は決して安全なものとは言えない。1986年のスペースシャトルチャレンジャー号事故では7名の命が失われたし、2003年のスペースシャトルコロンビア号の事故は記憶に新しいだろう。これらの事故をうけて、原因が究明されたり組織自体の在り方が見直されたりするなど事故を繰り返さないための様々な取り組みがなされた。しかし、それだけでは意味がない。飛行士の安全を第一に考え、小さな事例を見逃さずに事故を未然に防がなければならない。
 
 
 
これからの宇宙開発
 
 2008年から日本のきぼう実験室の取り付けが始まり、日本も国際宇宙ステーション(ISS)に本格的に参加することとなった。ISSは、日本を含めアメリカやロシア、カナダや欧州の国々など15カ国が参加する国際的プロジェクトだ。この宇宙ステーションの補給船として、日本のH-IIBロケットが導入されることが決定しており、これからの日本の宇宙開発への参入もますます期待できそうだ。また、2004年に民間企業によるロケット、スペースシップワンが弾道飛行に成功するなど、宇宙旅行ができる時代も徐々にではあるが開かれつつある。これらの宇宙開発の動向にも注目していきたいところだ。
月へのプロジェクト
 
 アポロ11号が実際に月に行ったということを科学的根拠から説明することも容易なことなのだが、この偉業を成し遂げるまでにどれだけの失敗と犠牲があったのかを知れば、人類が月に行ったという事実を感覚的に理解していただけるに違いない。
 マーキュリー計画は世界初の有人飛行を目指した計画だった。無人飛行20回、有人飛行6回、有人飛行の宇宙船にはすべて「7」という数字がふりあてられている。そのうち、アラン・シェパードののる「フリーダム7」が有人弾道飛行、ジョン・グレンの乗る「フレンドシップ7」が有人周回飛行に成功している。この計画で飛行士と宇宙船を無事に地球に戻すシステムを確立した。
 ジェミニ計画は、主として月へと飛行するために重要なランデブーとドッキングの実験のための計画だった。ランデブーとは接近飛行、ドッキングとは連結のことであり、宇宙船の軌道そのものを変えられる当時としては画期的なシステムだった。このジェミニ計画の最中に宇宙飛行士が宇宙空間に実際に出る船外活動も行われた。
 アポロ計画は実際の月面着陸を目的としていた。アポロ一号の火災という悲惨な事故をうけて飛行士の安全を守るためのシステムが強化され、8号では初めて月面の裏を見ることに成功し、アポロ11号でとうとう人類は月面に立つことに成功した。その後、ミッション中に事故の発生したアポロ13号を除き、アポロ17号までのべ12人が月面に足跡を残すこととなった。
 
科学者たちと小説
 
 宇宙開発には欠かせない6人の人物がいる。ソ連のコンスタンティン・ツィオルコフスキー(1857~1935)は、人間がロケットで宇宙に行けることを理論的に証明し、宇宙ステーションや軌道エレベーターなどを着想、「宇宙開発の父」として知られている。アメリカのロバート・ゴダード(1982~1945)はそれまでの固体燃料ロケットから、打ち上げ後も制御可能な液体ロケットの開発に取り組んだ。彼の開発や理論は先進的だったため、当時ではその業績はなかなか受け入れられなかったが、後に見直され現在では「近代ロケットの父」と呼ばれている。ドイツで活躍したヘルマン・オーベルト(1894~1989)は宇宙飛行の原理などについての著書を記し、フォン・ブラウンにも影響を与えている。また、宇宙旅行協会の2代目会長となった、ロケット工学の先駆者といえる人物だ。
 第二次世界大戦頃から、2人の人物が頭角を表わしてくる。ソ連のセルゲイ・コロリョフ(1907~1966)、彼は死ぬまで存在は公にされなかったほどの重要人物でスプートニクを打ち上げたR-7ロケットやガガーリンの乗ったボストークA-1ロケットなど、重要なロケットはすべて彼が開発したといっても過言ではない。その彼の好敵手となったのが、フォン・ブラウンだ。第二次大戦中世界初の液体燃料ロケットV2を開発した。ドイツ敗戦後は、アメリカに亡命しその才能を発揮、彼の開発したロケットにより、数多くの衛星や宇宙船が打ち上げられた。そして、コロリョフの死後、フォン・ブラウンの開発したサターンV型で、アポロ11号が打ち上げられることとなる。
 そして、これらの科学者を魅了したのが1865年に発行されたジューヌ・ベルヌ(1828~1905)のSF「月世界旅行」だった。大砲の弾で月まで行って帰ってくるという話なのだが、ツィオルコフスキーやゴダードなどが愛読したことが知られており、多くの人々がこの作品に影響されたことは間違いないだろう。
こうして、空想の産物だった宇宙旅行は現実のものとなっていく。
 
帰省して、また戻ってきました。
現在版下中のため美術関係の更新はできそうにないです。
せっかく原稿を書いたのにボツりそうな予感がとってもするので
ここにあげておきます。

宇宙開発競争のはじまり
 1957年10月4日ソビエト連邦から世界初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた。このニュースは世界中に影響を与えることとなる。特に東西対立の冷戦期であったその当時において、アメリカ合衆国にはスプートニクショックと呼ばれる大きな波紋を広げることとなる。科学技術において、ソ連を上回っていると考えていたアメリカ上層部の自信を打ち砕いたのに加え、国民は自分たちの国が偵察され攻撃を受けるのではないかとおびえることとなった。この不安と危険からのがれるためには自国もソ連に負けないように宇宙開発を推進し、ソ連に打ち勝たねばならない。ここに宇宙の覇権をかけて、米ソ宇宙開発競争の幕が開けることとなった。
 
先を行くソ連と追うアメリカ
 ソ連が崩壊した今となっては信じられないことかもしれないが、初期の宇宙開発においてアメリカはことごとくソ連に先を越されっぱなしだった。ソ連のスプートニクに対抗してアメリカの海軍が打ち上げたヴァンガードロケットは打ち上げ2秒で墜落、散々な結果となってしまった。そして、1961年とうとうソ連に、人類初の有人飛行まで先を越されてしまう。ユーリ・ガガーリンがボストーク一号で地球を周回したのだった。アメリカはアラン・シェパードが乗るフリーダム7で世界初の有人飛行を成し遂げようと考えていたのだが、打ち上げ延期などが重なり、またもや先を越されてしまった。しかもフリーダム7は宇宙空間まで打ち上げて、そのまま帰還するだけの弾道飛行というものだったが、ソ連のボストークは人工衛星と同じように地球を軌道周回するもので、アメリカがそれに成功するのは、1年後であった。
 立て続けのソ連への敗退、これはアメリカの威信にかかわることであった。そのためその年に当時のアメリカ大統領ケネディは1960年代の終わりまでに人類を月に送り、そして無事に帰還させるという、その当時結成されたばかりのNASAの職員たちを驚愕させる途方もない宣言をする。未だ宇宙空間や、月についてはわからないことも多く、迷信なども飛び交うような時代だった。無理難題だと思われる命令だったが、その計画を成し遂げるために金だけは湯水のように使ってよいと約束されていた。こうして、人類を月へ送るための様々なプロジェクトが展開されることとなる。
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